開始年 | 1890年 |
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艦隊規模 | Large |
その他初期設定 | 全て初期値 |
目標1 | 出アドリア海 |
目標2 | 地中海制覇 |
最終目標 | 世界的覇権国家 |
オーハンの夜明け
列強ひしめくヨーロッパ州にあって、伝統という蟲に侵された国があった。
名を、オーストリア=ハンガリー帝国という。
神聖ローマ皇帝位を恣にし、ドイツ諸侯を束ねてきたハプスブルク家を君主に戴く中欧のこの国は、伝統を重んじるあまり近代化の波に乗れず、各国との戦争に敗北。カイザーは求心力を失い、その威光は最早飾りに過ぎなかった。
ヨーロッパの病人であるオスマン帝国、既に死んでいるスペインよりマシとは言え、1890年のオーハンにあって、この国が世界の覇権を握るなどとは誰も思っていなかった。
ある男を除いては。
黎明期のオーハン海軍
「我が海軍は脆弱である。このアドリア海ですら我々の手に余る」
当時の海軍長官シュテルネック提督の手記を見る限り、彼はその責任の及ぶ範囲のあまりの情けなさに悩まされていました。
当時のオーハン海軍は沿岸の帝国領を保護するのが精一杯で、アドリア海のほとんどはイタリアの勢力内でありました。
しかし、彼は悲観に暮れて終わるような男ではありませんでした。
「アドリア海だけでなく地中海、いや世界の海に名声が轟く海軍にしたい」
シュテルネックの野望は周囲との温度差で風邪をひきそうなくらい遠大でした。
彼は1897年に亡くなるまで海軍長官として諸外国の海軍情報や国際関係、そこから導き出される戦略を手記に書き続け海軍の近代化に尽力。
旧き伝統に蝕まれたオーハンにあって、大国の近代海軍と渡り合うための礎を築いた功績は計り知れないものです。
彼の功績は一度目のイタリア戦後から認知され、次のフランス戦で世間の知るところとなりました。そのため、カイザーは彼の功績を讃え、その後の海軍長官は在任期間中シュテルネック卿と称されることとなります。
また、シュテルネックが手記に書いたことの多くが実現されていることから、歴代の海軍長官は彼の成功に倣って手記を継承。彼らがつないだそれはシュテルネック手記と呼ばれ、一部が一般に公開されています。その時代の海軍を今に伝える貴重な史料です。
さて、シュテルネック提督の言う通り、当時のオーハンは弱小海軍国でした。総排水量は下から3番目、予算は下から2番目であり、当時没落していたスペインにすら負けていました。
この時のオーハン海軍はKAISER級戦艦5隻を保有していて、数では隣国イタリアと拮抗していましたが、戦艦の総トン数が半分以下であることから分かる通り、個艦性能は大きく劣っていました。KAISER級は近代戦艦というよりも旧態依然とした装甲艦であり、張りぼてと評するのが適切でした。
海軍もそれは分かっていましたが、国内で作れる戦艦は9000トン級の小型戦艦が精々でした。
フェルディナント級は見た目こそ近代戦艦でしたが、主砲は10インチ(25.4cm)と列強の戦艦よりも小さく、外洋航行能力に乏しい海防戦艦でした。
この艦では解決策にならない。
そう考えたシュテルネックは、戦艦に頼らない戦略を模索しなければなりませんでした。
1週間後、シュテルネックが出した結論は「速射砲による榴弾攻め」でした。
戦艦が脅威であることは事実でしたが、それは攻撃力によるものではなく、12インチ(約30cm)の徹甲弾を余裕で弾く厚い装甲を張り巡らせた圧倒的な防御力ゆえ。
しかし、いかにぶ厚い装甲を持っている戦艦でも、必ず可燃物を積んでいます。そこに火をつけて消化不能に追い込めば、艦を放棄せざるを得ないというわけです。
火達磨にするとは何とも残忍な考えです。敵艦がかわいそう。
そんな甘っちょろい同情はおいといて、オーハン海軍はシュテルネックのドクトリンに基づき、海軍は連射力に優れた6インチ(約15cm)砲を多数採用した防護巡洋艦の設計・建造に着手しました。
艦名 | Helgoland級防護巡洋艦 |
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排水量 | 5600トン |
主砲 | 6インチ速射砲8基8門 |
速力 | 22ノット |
魚雷発射管 | 2門 |
建造数 | 4隻 |
また、彼はHelgoland級を有効に活用するため、参謀と共に20ノットを超える機動力と速射力で敵艦隊を翻弄する新たな艦隊戦術を練り上げました。
けれど、この艦に追随できるのは3隻の装甲巡洋艦のみであり、それを足しても6隻の軍艦しかいません。もっとたくさん建造したくても予算がありません。オーハン軍の主力は陸軍です。海軍は陸軍の補助戦力に過ぎず、海軍予算の増額が議会に認められることは稀でした。シュテルネックの活動は野望と裏腹に小さく抑え込まれていたのです。
スペインとの外交危機
1891年3月、スペインとの間で植民地危機が発生。
この頃のスペインは既に凋落しており、イタリアやフランスよりも戦いやすい相手でしたが、それでもオーハンを上回る艦隊を保有していました。慎重な提督ならば怖気ずくところですが、以前より最初の相手には丁度良いと思っていたシュテルネックは、このとき対スペイン戦を決意したといいます。
また、この事件は海軍にとっても転機となりました。スペインとは陸上で接しておらず、陸軍はこの問題に対処できませんでした。これを何とか出来るのは海軍だけであり、ここで漢を見せれば、海軍への期待を高めることができます。
そこで政府に対して最も強硬なアドバイスをしたところ、スペインとの関係がかなり悪化しました。当然の結果です。
しかし、防護巡洋艦Helgolandの就役まであと8か月、2番艦が11か月で、3番艦が18か月。海軍の戦力はまだ整っていません。
この時、シュテルネックは外務省に対し、Helgoland級が就役するまで開戦を引き延ばしてほしいと内密に伝えています。外務省は名誉欲に走って尻拭いを頼む海軍のことを罵ったでしょう。
また、イタリアとの緊張度も高くなっていたため、シュテルネックはイタリアとの関係改善を政府に提言しました。「2正面作戦をするだけの戦力はまだない」とシュテルネックは手記に残していますが、やはり外務省は無暗に仕事を増やすシュテルネックの頭をかち割りたかったことでしょう。
外務省が時間を稼いでいる間に、海軍は戦隊の編成と砲術訓練を開始しました。
1891年12月、情報部よりスペインの戦闘艦の大部分が戦闘可能状態にあるとの報告がシュテルネックの元に届きました。
オーハンではちょうど防護巡洋艦Helgolandが就役し、4番艦を発注したタイミングです。
艦艇数を比べてみると、オーハン海軍が戦艦7・装甲巡3・防護巡1に対して、スペイン海軍は戦艦6・装甲巡4・防護巡2とオーハンが劣勢です。けれど、ここで狼狽えれば死体蹴りの機を逸すると考えたシュテルネックは、平和と安定のため態度を改めるようスペインにメモを送りつけました。
するとスペインはひどく反応し、いよいよ一触触発の状況となりました。
シュテルネックは間もなく開戦するとして全艦戦闘配置を下令。それと同時に1800トン級仮装巡洋艦を2隻手配しました。通商破壊に戦闘艦を抽出する余力は無いため、仮装巡洋艦に通商破壊を任せるしかありませんでした。
貧乏海軍って辛いですね。
1892年5月、仮装巡洋艦を2隻追加したのち、ボルネオの内乱にスペインが介入しました。
なんと野蛮な行いでしょう。これは許せません。
イケイケなスペインに対し、オーハンは最後通牒を出して警告しました。シュテルネックの読みは「スペインはビビッてボルネオから撤兵する」でしたが、スペインはそれを握り潰してボルネオを占領しました。
イケイケな時ほど周りのことが見えなくなるものです。
最後通牒が握りつぶされたことを受けてオーハンはスペインに宣戦布告。
ここに墺西戦争が勃発しました。