第二次墺伊戦争
1923年早々、オーハンとイタリアは戦争状態となった。
先の戦争から15年。イタリア海軍はその戦力を回復し、オーハンを上回る数の戦艦を保有するに至った。しかし、主力艦に心血を注いだぶん駆逐艦の数は心もとない。
これに対するオーハンはまたもや劣勢ながらも、個艦性能ではイタリアに勝っている。
【オーハン海軍艦隊編成 1923年】
第1艦隊 | 戦艦3隻、装甲巡3隻、軽巡2隻、駆逐艦18隻 |
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第2艦隊 | 巡戦4隻、軽巡3隻、駆逐艦18隻 |
第3艦隊 | 軽空母3隻、駆逐艦12隻 |
第4艦隊 | 戦艦1隻、駆逐艦18隻、コルベット15隻 |
第5艦隊 | 防護巡6隻、潜水艦11隻 |
主力の第1・第2艦隊と両艦隊の制空権を守る第3艦隊。通商護衛の第4艦隊に通商破壊の第5艦隊と戦争遂行に抜かりはなく、艦隊の練度も申し分ない。第4艦隊の駆逐艦が多いが、これは旧式化した500トン級駆逐艦である。
また、今回はドイツがバックについており、今度こそ完勝をおさめるのだとオーハン海軍の士気は最高潮に達していた。
潔き戦争
第3次Foce海戦
1923年2月1日11時20分、サルディーニャ島東方で両国の大艦隊が接敵。この戦争で初の艦隊決戦となりました。
敵前方に陣取っているのが巡戦艦隊。その後ろに本体と空母部隊が続いています。距離約2万ヤードで砲戦開始。また、準備していた航空隊を発艦させます。
間もなく本体が巡戦艦隊に合流して複縦陣を形成。一か所にまとまって砲火力を集中し、局所的に数的優位を確保しました。不利を悟ったイタリア艦隊は距離を取ろうと逃走を開始しました。
追い詰めたいところですが、魚雷が怖いのでなかなか近づけません。注意してもなお、Budapestが一本被雷。幸い大した損害にはなりませんでしたが、速力は22ノットに低下しました。
イタリア艦隊を追撃していると上空に航空隊が到着。さあ攻撃してくれと期待していましたが、攻撃せず引き返していきます。おそらく航続距離が足りなくなったのでしょう。残念ですが初期の航空機なので仕方ありません。
後になって大艦巨砲主義者も空母戦力を敵視してきたことを後悔したようです。
暫く砲戦を続けていると、東西に落伍しているイタリア戦艦が1隻づついたので艦隊を分離しました。既に2時間も砲戦をしており、艦隊運動にも乱れが生じています。
艦隊運動が乱れると被害が出やすくなるため早く終わらせたいなと思っていたら、14時20分にまたもや被雷。
被雷したのは3番目のBabenbergなのですが、魚雷を放ったと思われる駆逐艦は角度的に5分程前に魚雷を放ったものと思われます。うますぎんか?
即刻離脱を指示したところ、更に1本被雷しました。攻撃可能な駆逐艦はいませんので、潜水艦によるものと思われます。これは助からないかもしれませんが近くの港に退避させます。
が、ダメコンも空しく18時40分に沈没。華々しい戦禍も上げることなく沈んでしまいました。
こんな失態が起こるとは、オーハン海軍も大きくなりすぎましたね。
海戦自体は落伍した敵戦艦2隻を執念で屠りましたので判定勝ち。敵には11隻もの戦艦がいたのに7隻でよく立ち向かったなと思う一方、16インチ戦艦喪失は大きな痛手です。艦隊司令官は不安に苛まれて不眠症になったそうです。
戦闘終了後、ドイツからまだ参戦できないと通達が来ました。イタリアを海上封鎖することができていますので、まだいいよと言っておきます。
しかし、翌月の海戦では巡戦が中破しましたのでこちらが海上封鎖を受けました。これが起きるのは戦力が拮抗しているからです。早期に海上の優位を掴みたいですね。
第二次タラント湾海戦
1923年4月20日、タラント湾を襲撃する作戦が実行されることとなりました。どうやら湾内には敵戦艦部隊が存在しているらしいです。ここで戦果を挙げれば地中海の制海権を確保できますので、出撃可能な戦艦5隻全てを参加させます。
接敵後、巡戦部隊は砲撃戦をしつつ北上。本体との距離がどんどん離れていきます。イタリア艦隊の主力は巡戦6隻で、オーハンの巡戦部隊に追いつこうと高速で走っているため、本体に合流できず数的不利に陥っています。更に、イタリア艦隊には15インチ砲搭載艦がおり火力の面でも劣勢。先頭を走るLissaに砲撃が集中し速力低下。旗艦を交代します。
しかし日没後、イタリア戦艦の一隻がオーハン艦隊方向に突出。格好の的となり14インチ砲弾が多数命中。後方の1隻も火災が発生しました。
後続のイタリア巡戦は照準が味方と重なったのか分かりませんが、命中率が低下。わずかな時間でしたが、敵艦に対して有効打を与えることができました。しかしLissaで火災が発生しましたので戦場から離脱させます。
完全に日が沈み、損傷したイタリア戦艦を追撃しているタイミングでオーハン航空隊が現着。闇夜の中で敵艦に魚雷を命中させました!いま何年でしたっけ?
兎に角、航空隊の援護もあり敵戦艦2隻を停船させました。
また、別の退路から離脱しようとしている戦艦を駆逐艦で追跡。戦艦隊が追いつく前に見失ってしまいますがその後再接触。
囲んでリンチにして海戦終了です。
オーハン側は駆逐艦4隻の沈没で、敵巡戦3隻の撃沈に成功しました。数的には5:7で不利でしたが、損傷艦はこちら4隻に対してイタリアも4隻です。このような結果になったのは、練度で勝っていたからにほかなりません。
また、オーハン航空隊もこの時代の航空機で雷撃に成功するという神業を披露してくれました。しかも日没後にです。結果として27機を失いましたが、結果は上々です。
ところで、営業損失とはなんでしょうか。着艦事故?未帰還?パイロットが無事であることを祈ります。
南アドリア海戦
1923年6月26日、連戦連敗のイタリア海軍は先の海戦での傷が癒えぬタイミングで攻勢を仕掛けてきました。イタリアの指揮官は優秀ですね。オーハン海軍の戦艦部隊は少数精鋭であるがために、連続出撃できる艦が少なくなります。現に、この海戦には3隻の戦艦しか参戦していません。一方のイタリア海軍にはまだオーハンを上回る数の戦艦がおり、自軍にとって最も都合の良い状況で戦闘をすることができるのです。
イタリアの計画は完璧です。
まあ、オーハンが優勢だった決戦はこの戦争中1度もないんですけどね。
8時42分、目視で確認すると敵戦艦がオーハンの倍はいます。
これはいけません。引き戦をしつつ航空隊を出撃させます。
空母艦載機による空襲と砲撃のコンビネーションをキメていると、敵戦艦の主砲が吹っ飛び爆発轟沈しました。
チャンスです。敵が及び腰になりました。3方向に散り散りになりましたので、各個撃破していきます。
1隻を停船させ、北方に逃げた巡戦3隻を追撃しましたが、その途中で戦艦の主砲弾が底をつきました。大破している敵戦艦を逃すわけにはいきませんが、日が暮れてもなかなか沈みません。
なんということでしょう。駆逐艦2隻が敵戦艦に突撃。衝突して沈没しました。その甲斐あってイタリア戦艦の沈没に成功。彼らの勇姿は後世の語り草となるでしょう。
実に3倍の敵戦艦を相手にしましたが、結果はオーハンの駆逐艦3隻沈没に対してイタリアは戦艦3隻沈没でオーハンの完勝です。
この海戦では、イタリア艦隊はオーハン艦隊から鬼気迫るものを感じたことでしょう。3倍の敵に対しても臆することなく戦う姿にビビらない者はいませんし、3倍の戦力を用意しても勝てないことが証明された今、イタリアの戦意は失墜しました。
この3度の決戦で、オーハンは戦艦1隻の喪失に対して、イタリアは実に8隻もの戦艦を失い、戦力比は7:6となりました。
戦争終結
勝てないことを悟ってか、イタリアから和平の申し出がありました。
こちらが強硬な態度を見せると、領土の割譲と多額賠償金を支払うと言いましたので、オーハンの圧勝で戦争は終わりました。
イタリアは植民地が少なく、リビアとエリトリアしかありません。戦勝点が8ありましたので、両植民地とも頂きます。
開戦からわずか半年で決したこの戦争は、往生際の悪い近現代の戦争とは対照的に敗戦国が潔く負けを認めたことから、後年にアドリア両岸の力比べ、潔き戦争と呼ばれることとなりました。
もっともこれはオーハンや第三国の話で、敗戦国イタリアにとっては屈辱以外の何物でもなく、悪夢の6か月と嘆きのネタになりました。