熾烈の欧州大戦
フランスと開戦した1929年4月から再開です。
開戦直前の各国艦隊一覧を見てみると、オーハン海軍は世界第4位の海軍に成長。フランスの排水量を上回っています。ここにまもなく竣工するBabenberg級戦艦2隻を合わせれば、地中海の制海権を握れるやもしれません。
独墺と英仏の戦艦比は20:29。差が10隻くらいなら一度の決戦に大勝利を収めればひっくり返せますが、いかんせん練度が足りないのでどこまでやれるか分かりません。
艦隊編成は次の通りです。
【オーハン海軍艦隊編成 1929年】
第1艦隊 | 戦艦5隻、重巡3隻、駆逐艦29隻 |
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第2艦隊 | 巡戦3隻、軽巡5隻、駆逐艦11隻 |
第3艦隊 | 空母6隻、駆逐艦12隻 |
第4艦隊 | 戦艦1隻、駆逐艦6隻、コルベット11隻 |
第5艦隊 | 防護巡5隻、潜水艦16隻 |
第6艦隊 | 装甲巡3隻、駆逐艦6隻 |
主力の第1艦隊と快速の第2艦隊。両艦隊の制空権を守る第3艦隊。通商護衛の第4艦隊と通商網破壊の第5艦隊。そして、旧式の第4・第5艦隊から今回新たに編成された第6艦隊。通称インド洋派遣艦隊。この6艦隊で英仏艦隊を迎え撃ちます。
しかし、第1艦隊に配属予定のBabenberg級戦艦2隻は未竣工。Lissa級巡洋戦艦3番艦のSlavonianは改装中です。竣工を急がせたいですが、全艦艇を動員したことで海軍予算は5000を超える赤字。一方で資金は9000弱しかありませんし、戦時予算も議会を通過していません。
戦争は既に始まっていますので、この戦争中、艦隊総司令はラデツキーに座乗して指揮を執ります。
積極的に戦いたいですが、いかんせん準備不足なので、開戦後数か月の艦隊行動は慎重なものとせざるを得ません。
同月、北欧で仏独の艦隊戦がありドイツは戦艦3隻を喪失しました。不穏な立ち上がりですが大丈夫でしょうか。
チュニジア上陸作戦
開戦3か月後の1929年6月。
フランスが戦力の大半を北欧に割いたので、地中海の要所チュニジアへの上陸作戦を開始。迎撃もなく成功しました。イギリスに宣戦布告される前に紅海のジブチへの上陸作戦を準備させます。
しかし、翌月にイギリスが対オーハン戦に参加。独墺同盟と英仏同盟の両陣営が本格的な総力戦を開始したのです。
第一次Tuelade岬沖海戦
1929年8月7日19時半、チュニジアの陸戦支援として敵輸送船団襲撃にオーハン艦隊が出撃。中核を担うのは第2艦隊です。
空母も艦隊に随伴していますが、夜間且つ天候不良のため航空機を発信させることができません。
一度敵を見失いましたが、至近で再接敵。乱戦に突入します。乱戦で気を付けなければいけないことは、敵駆逐艦からの雷撃と敵戦艦からの水平射撃です。
駆逐艦からの雷撃に警戒しながら砲戦をしていると、敵巡洋戦艦が爆発轟沈。
オーハンが勢いづくかと思いましたが、こちらも巡戦Kärntenが被雷。
退避中に至近距離から放たれた敵の14インチ砲弾が砲塔に直撃し爆発轟沈しました。
双方損害が急速に増えるなか、オーハン側が輸送船を6隻を撃沈確実にすると撤退したため、海戦は痛み分けに近い形で終了となりました。
結果は、巡戦1・軽巡1・駆逐7隻の沈没に対して巡戦2・駆逐3・輸送船13隻を撃沈する戦果を挙げオーハンの判定勝ちとなりましたが、損傷艦が多数出たため、海軍資金が底をつき借金を抱えることとなってしまいました。Babenberg級戦艦の就役が目前のため、そちらの建造を優先し損傷艦の修理を停止します。
英仏側は戦艦2隻を失う手痛い結果でしたが、輸送船4隻を無事にチュニジアへ送り届けることができ、物資輸送という戦術目標は一応果たされました。
第二次Tuelada岬沖海戦
1929年9月30日、イギリスは艦隊を地中海に派遣しオーハンを海上封鎖しました。制海権を握った英仏連合軍が再びチュニジアへ輸送船団を向かわせたため、オーハン海軍は船団襲撃を実施。敵味方共に戦艦は出撃せず、巡洋艦戦となりました。
結果、オーハン海軍は沈没艦0で英仏の軽巡1・駆逐2・輸送船13隻を撃沈して勝利を収めましたが、またしても輸送船全てを沈めることはできず、英仏側の戦略的勝利となりました。
同月、Babenberg級戦艦2隻が竣工。陸軍が予算を都合してほしいとのことで融通。
そして酸素魚雷を実用化しました。酸素魚雷は高威力で射程の長く航跡も見えにくい素晴らしい魚雷です。早速搭載させます。
Babenberg級戦艦2隻の竣工により、オーハン海軍の総トン数は遂に50万トンを突破しました。独墺対英仏の戦艦比は18:26と開戦前からさほど変わっていませんが、世界最強の攻撃力を持ったオーハンの第1戦隊が英仏を粉砕してくれるでしょうから全く問題ありません。
なお、旗艦は依然としてラデツキーが勤めます。Babenbergは火力に重点を置きつつ排水量を削ったため、旗艦としての機能が不十分だったのです。
戦艦2隻が竣工したことにより予算に余裕ができたので、止めていた研究費・諜報費・海軍大学校運営費への再割り当て、潜水艦の建造を行います。
1929年11月、英仏から和平の提案が来ましたが突っぱねます。戦争はこれからです。同月、機雷敷設型潜水艦を6隻起工しました。
第一次チュニス湾海戦
1929年11月26日、チュニジアの陸戦を支援するため、第1艦隊が制海権を確保すべく出撃。ラデツキーが先陣を切ります。
天候不良の中、至近で敵艦隊を発見。先頭の敵戦艦に攻撃を集中させます。敵戦艦は他にもいますが、近距離戦のためオーハン海軍の損傷も著しく、虎の子の第1戦隊を失いたくない艦隊司令官は退却を決意。
戦果は敵戦艦1隻に留まりましたが、数的劣勢の中よく戦ったと思います。
第二次チュニス湾海戦
1930年1月30日。チュニジアの陸戦支援のためオーハン海軍は再び第1戦隊の3隻を派遣。今度は新鋭のBabenberg級戦艦も1隻参加しています。
敵艦隊は戦艦4隻を基幹とする英仏連合艦隊です。同行戦で16インチ砲弾を叩きこみます。
その内敵戦艦の1隻が戦列から落伍。
索敵からの情報によると、それは14インチ砲を10門搭載したマジェスティック戦艦で、火力と防御力に優れていますが足は遅いです。
間もなくマジェスティック級を停船させましたが、こちらも先頭のHabsburgに火災が発生。Babenberg級の2番艦ですので、ここで失うわけにはいきません。港に退避させます。
退避する間もHabsburgは敵Caesar級戦艦に主砲を叩きこむなど、第1戦隊でCaesar級を戦闘不能に追い込みました。
残る2隻は夜になっても追撃しフランス戦艦1隻が沈黙。それを見届けてオーハン艦隊は退却しました。
海戦はオーハンが戦艦3隻を撃沈して快勝。第1戦隊の火力を世界に示しました。
しかし、チュニジアの上陸軍は敗北。制海権を取られるターンもありましたので、海軍として満足な支援を行うことができず、また主力艦の喪失を恐れるあまり大胆な戦力を投入することもできませんでした。陸軍には申し訳ないことをしました。
1930年4月、巡戦Slavonien艦長が現在の海軍ドクトリンが慎重すぎるという批判を海軍定期刊行物に発表しました。カイザーは動揺し彼を軍務から外してほしいと仰いました。
ドイツとオーハンは国家特性で重巡以上の主力艦を喪失するとカイザーに怒られるため、海戦でも慎重にならざるを得ません。今回のチュニジア上陸部隊の敗北はそれによるところも大きいです。
そこで、威信が大幅に下がりますがSlavonien艦長を擁護。
カイザーからの信頼を多少失いましたが、海軍士官達は大胆な戦術を取れるようになったことを喜んでいます。
今後の艦隊行動を大きく変える選択をしたところで、今回はここまで。